ARGOの「プラトレ」

通る企画書を作るために。プランニングのトレーニング

予測と計画

昔、マンションの販促企画を立案していた頃、投下する広告費用に応じてモデルルームへの来場者数や成約件数を予測し、何度も的中させてクライアントを驚かせた事がある。普通は幅を持たせた予測をするのだが、広告代理店の営業サイドの意向で明確な数値を示し、それがバッチリ当たったために一気にクライアントの信用を得ることが出来た。実際、端数まで当たると言うのは全くの偶然に過ぎないが、過去の実績と経験を積んで市場調査をして行けば、ある程度の事は予測できる。今でも集客施設や交通機関を計画する時は、必ず予測を立てるはずだ。

 
高速道路や空港と言った公共施設の予測数値が大きく外れるのは、そこに「政治的な意図」が入るからだ。キチンとした予測が出来るのと同じように、クライアントの意向に沿った数値をひねり出すことも簡単に出来る。ただし、この数値は「予測」ではなく何らかの意図が入った「計画」であることを忘れてはならない。
 
売上計画と言う数字は、予測と言うより、実際はチャレンジ目標であることが多い。今の市場環境ではこれくらいしか売れそうにないが、社員のやる気を引き出すために高めの目標を計画値として設定したい、と言う会社はたくさんある。高めの数値を設定したことでチャレンジ目標が達成できたと言うケースもある。だから高めの計画をたてることには何の問題も無いと思うが、気を付けなければいけないのは、数字が独り歩きしてしまうことだ。
 
高めに設定した数値であることを忘れて仕入れや販促に予測値とはかけ離れた予算をつぎ込んだりすると、後で痛い目に遭う。その数値が正確な予測なのかチャレンジ目標なのかを理解した上であらゆる計画を立てて行く必要があるのだ。

商品を生産販売する際は、特に予測〜と言うより「事前の計画」が重要になる。仕入が少なければ欠品により販売チャンスを失うし、多過ぎれば不良在庫や廃棄処分になったりする。スーパーやコンビニから自動車メーカーまで、あらゆる業種で予測(計画)が立てられているが、気を付けなければいけないのは、その計画が単なる「チャレンジ目標」だったり「政治的な意味合いを持つ目標」であるケースがかなり多い事だ。
ハナから無理だと思える数値を打ち出して目標達成に向かって頑張るのは良いが、いつの間にかチャレンジ目標が計画値に入れ替わってしまう事がある。トップの勘違いが部下に伝わり、いつの間にか粉飾決算やデータ改ざんに繋がる事もあるから恐ろしい、

AI革命

人工知能囲碁のプロに勝ったことで、AIへの関心が急速に高まっている。あと10年もすれば人工知能が人間の仕事を奪っていくと騒ぐ人も増え、メディアでも「どんな職業が無くなるのか」等と言う特集を組んだりしている。
広告業界にいて、最初に無くなるのはテレビや新聞などの枠取り業務だと思っていた。実際に枠取りそのものは自動化され、番組表をにらんで線引きをする事は無くなった。ただ、いつ、どんな枠を取るかと言う交渉は媒体の営業マンとの調整が必要で、未だにクライアントや媒体社との飲みニュケーションが幅をきかせている。
その一方で、ExcelPowerPointの普及によって、予算が少ないマーケティングやクリエイティブ作業は社内で済ませると言う代理店が増えてきた。パソコンを使えば誰でも見映えの良い企画書や報告書を作ることが出来るし、ネットで調べれば大まかな市場動向はつかめる時代になったのだ。
もちろん一流と言われるクリエイターはこれからも生き残るだろうが、東京五輪のエンブレム問題を見てもわかるように、コンピュータ社会が現実のものになって、プロとアマチュアの境が限りなく曖昧になってきている。
誰でも出来ると思っていた単純労働よりも、中途半端なクリエイターの作業がコンピュータに取って代わられているのが現状だ。いずれ、小説や漫画をはじめ、雑誌や新聞の記事もコンピュータが書くようになるかもしれない。会社経営も、コンピュータが的確なアドバイスを行うようになったら、コストの高いコンサルタントや弁護士も必要なくなる。
人間がやる作業は、人間でしか出来ないと思われていた分野の仕事などではなく、ごく一部のトップと、AI導入費用に見合わない低価格な作業に集約されるようになるのではないだろうか?
仕事はコンピュータやロボットが行い、人間はその利益を享受するようになることでお金に囚われない平等な社会が到来する、と言うような理想郷は、当分の間、もしかすると永久に来ないような気がするのは、あまりに悲観的な見方だろうか?

企画の華

企画会議を重ねて行くうちに「この線で行こうか」と話がまとまりかけた時、そのまま企画を進めて行くか「これが良い!」と思える企画が出るまで粘り通すか、その判断が企画の良し悪しを決定する大きな分岐点になる事が多い。もっとも「コストを削って今まで誰も見た事がないような企画を作れ」と言うような虫の良い話は無視して良い。企画の骨子や手法は使い古されたようなものでも、切り口や視点を少し変えただけで斬新な企画に生まれ変わらせる事は可能だ。

「これで良いんだけど何となく物足りない」という企画を「これだ!」と腑に落ちるものに変えるためには、『華』を組み込むことがポイントになる。その企画をひと言で表せる目玉を探し出す、言うなれば企画の顔作りだ。どんなに練り込まれた良い企画でも、ピンとこないものは大抵失敗する。ピンとこないのは、企画内容を頭では理解できても心に残らないからであり、要は、その企画に顔がない、華がないからだ。

最も簡単な華づくりは、タレントを起用することだ。タレントを使い慣れている大企業ならともかく、タレントにあまり縁がなかった企業なら、タレントのブッキングに成功すれば企画内容は二の次で決まる。タレントが無理ならコンパニオンでも良いが、その時はコスチュームにこだわってみる。それも無理なら、イベントやキャンペーンの場合はタイトルやキーワードに斬新な言葉を持ってくる。珍しいノベルティを探してくるのもひとつの手法だ。

とにかく、クライアントや上司に「あの○○の企画」と言ってもらえるようなインパクトを残すことが出来たら、ほとんどの企画は成功する。

ふたつの評価軸

目にする作品や耳にする音楽など、普通は「好きか嫌いか」で判断することが多い。もっとも、実際は好きと嫌いの間に「どちらでもない=どうでもいい」と言う大きな河が流れている。映画や書籍、音楽、絵画などをはじめ、タレントやCMなども、好きが1割、嫌いが1割。後の8割がどうでもいいとなるケースが多いのだが、出来るだけ自分の中での「どうでもいい」を少なくして「好き嫌い」をはっきりさせると同時に、クオリティに関する新たな評価軸を加えるように意識している。

私の場合は『(自分がその対象を)認めるか認めないか』で決めているが、要はクオリティが高いか低いかといった客観的な視点だ。この評価軸を加えることで、自分が嫌いなものでも、見てみよう・触れてみようという気持ちになる。世の中で流行っているものは、例え嫌いであっても「流行っている」という時点でチェックするようにしている。実際は、8.6秒バズーカやクマムシのように、好きでも嫌いでもなく大して評価もできないというものが多いのだが。

好き嫌いを横軸に、クオリティを縦軸にすると、
①好きな上にクオリティも高い
安室奈美恵miwa、サザン、綾瀬はるかなどは凄いと思うし好きだ。
②クオリティは高い(認めるが)あまり好きじゃない
EXILE系や浜崎あゆみなどは凄いとは思うが好きにはなれない。お笑いではダウンタウンナインティナイン、その他に三谷幸喜秋元康など実力は認めているがあまり好きじゃない。彼らの才能に嫉妬しているような気もするけど。昔のアイドルで言うと、松田聖子中森明菜がこの象限だ。
③好きだけどクオリティには?が残る
〜この象限にはアイドル系のグループがいっぱい入る。ももクロ(ある意味、クオリティも評価している)や初代のモーニング娘。AKB48もこのジャンルに入る。キャンディーズ石野真子菊池桃子は好きだったなぁ。
➃好きでもないしクオリティも評価できない
〜さっき書いた8.6秒バズーカやクマムシなど。初めて見たときからすぐに消えるだろうと思っていたが、こんなに早くテレビから姿を消すとは思わなかった。

こう言う4つの象限でテレビや物ごとを見ていくと、今まで興味がなかったものにも目が行くようになるし、コンペで負けた相手の企画なども冷静に判断出来るようになる。競合で負けた相手の企画の大半は「キライだけど認める」に入るが、時には「キライだしクオリティも評価できない」ものもある。

好き嫌いだけで判断していると、いつの間にか好きなものしか評価しなくなる。キライなものでもクオリティが高いものはキチンと認めよう。それが企画する際のベースとなる蓄積情報に繋がって行く。


ネットネイティヴ

記憶媒体がまだカセットテープだった頃からパソコンに触って来た私にとっては、今のネット社会は、当時の予想をはるかに超えている。
平成になった後でも、近い将来(当然、私が死んだ後の未来)1人が1台ずつ電話を持つ日が来るかもしれない、そうなったら、怖そうなお父さんがいる家の娘さんでも、直接電話できるからカップルが増えるんじゃないか?などと酒の席で盛り上がったものだ。誰もが使える電波が限られている以上、1人1台は難しいと考えられていた。それが技術の進歩で電波の有効活用が可能になり、今のように個人によるネット活用が当たり前の事になった。まさに「夢のような社会」が到来したのだ。

以前、我が家の無線LANルーターを買い換えた時、大学生の息子がパソコンはネットに繋がらないと大騒ぎしていた。「ネットに繋がらないパソコンはただの箱だ!」と言う息子の言葉を聞いて、パソコン通信で電話代を気にしながら使っていた昔の事を思い出した。当時はネットに繋ぐために大変な労力を必要とした。送ったメールが届かない事もあったし、ネットから入手できる情報も極端に少なかった。そのためにパソコン通信の時代はマニアが集まる同好会のような雰囲気があったが、インターネットが爆発的に普及し始めてそこは無法地帯になった(その頃の名残りが2チャンネルだ)。ネット上に溢れる情報は玉石混合(と言うより嘘の方が多い)で、ネットでのやり取りは人混みの中で話をするのと同じように周りの人に筒抜けだった。今でこそある程度はある程度の秩序が生まれてきたが、ネット環境があることが当然のように育ってきた『ネットネイティブ世代』は、その過程を知らない。だから平気でWikipediaの情報を信じてしまうし、重要な話でもSNSやメールでで済ませている。本当にその情報は正確なのか、送ったメールはちゃんと相手に伝わっているのか〜昔を知っている私から見ると危なっかしくてハラハラしてしまう。

こんな事を言うと「電気さえない江戸時代の人間か!」と突っ込まれそうだが、パソコンやネットが無ければ企画書1本作れないような大人にはなって欲しくない。企画書は、足を使って情報を集め、頭を捻って考えて行けば、後は紙と鉛筆があれば作ることができる。ネットやパソコンが企画を作ってくれるのではなく、あくまでも自分の頭で考えて作るものだ。最悪の事態を想定しておけば、停電しようがパソコンがフリーズしようが慌てることなく対処する覚悟ができる。

ネットネイティブとネット依存症は紙一重である事を覚えておいて欲しい。

1票の格差

1票の格差が大きな問題になっている。投票行動が国民が持つ最大の権利である以上、票の重さに違いがあるのはおかしい、という理念はわかる。その一方で、人口が減少する中で東京への一極集中が進んでいることや、地方の弱体化・郡部の過疎化などが問題になっている。1票の格差を是正しようとすればするほど大都会〜特に東京選出議員が増加し、ますます地方の声は届かなくなってしまう。一時期、東京の税金が地方に回されるのは不公平だと発言していた議員がいた。自分たちのお金は自分たちが使う権利があると言いたい気持ちも理解できないでは無いが、1票の格差を完全に解消しようとすれば同じように勘違いする議員が増えてくるかもしれない。

人口が東京に集中するのは、そこに大学や企業が集中しているからだ。企業が東京に集中するのは省庁があるからであり、政治家が集まる国会があるからだ。各省庁の権限が強すぎるから企業の本社が集まり、クライアントの本社が東京に集中しているからマスコミやタレント事務所が集まってくる。日本もそろそろアメリカのワシントンとニューヨークのように政治と経済の中心地を分けたほうが良いのではないだろうか。日本も昔は、政治は江戸・経済は大坂として機能していた。戦後も大阪に本社をおいていた大企業も多かったが、高度成長期の省庁の権力が強くなったために東京集中が強まり、大企業は続々と本社を東京に移すようになった。

ケンミンショーなどを見ると、かろうじてまだ地方色は残っているようだが、お笑いの総本山である吉本でさえ人気芸人は東京に進出している。橋下徹氏の大阪都構想には「都(みやこ)はひとつだろう」と多少違和感を感じていたが、大阪副都とか商都だったら大賛成だ。明治維新直後のように国が一致団結すべき時なら東京への集中する意味はあったかもしれない。しかし、ここまで大きくなった国がひとつの都市に全てを集中するのは危機管理上でも大きな問題がある。

地方都市で制作するCMがあまり面白くないのは(もちろん例外もあるが)、クライアントがいない、予算がない、アイデアを出したりCMを作れる人材がいない、タレントがいない、、、まさに無い無い尽くしだからだ。地方で良いCMを作ろうとすれば、ディレクターは東京から呼ぶことになる。タレントを起用するなら、これも東京から呼ぶしかない。1億人以上が暮らす国で東京にしか人材が集まらないのは、そちらの方が異常だ。

政治の首都は東京でも良いが、そろそろサポート機能を持つ都市を作る時期に来ているのではないだろうか。1票の格差と言うニュースに触れるたびに、都市部への権力の集中化への危惧を覚えると同時に地方を何とかして欲しいと切に思う。


インバウンド需要を横目で見ながら

昨年から外国人~特に中国人観光客の「爆買い」が大きな話題になっている。政府が観光立国と言う方針を掲げていることから、今後も外国人観光客は大きな「需要の塊」であり、特に量販店などの小売業には見過ごすことの出来ない商売のチャンスであることは間違いない。これらのインバウンド需要をどう取り込むか~私なりに色々と勉強して何本かの企画書も作成したが、売れるからと言って爆買い需要にスタンスを移すのは良くないと考えている。商売の基本はあくまでも「お得意様=既存客」であり、顧客の固定化こそが安定した売上につながって行く。『顧客第一』をスローガンにあげる企業や商店は山ほどあるが、実際にお客様目線で商売を行っているところは案外少ない。

中国人観光客による爆買いは一時的には企業に大きな売上をもたらすかもしれないが、その一方で固定客の店離れを生み出す危険性もある。実際、外国人観光客であふれる銀座の老舗に「もうあの店には行かない」という常連客の声を紹介したニュースをよく目にするようになった。目の前にいる新規のお客様を大切にするのは悪いことではないし、観光客お断りと言う看板を掲げることも出来ない。ただ、目先の利益に目を奪われて既存客をないがしろにするといつか痛いしっぺ返しを受ける。

外国人観光客はこれからも増えるだろうが、中国人による爆買いは党の政策次第で一気に収束する危険が高い。来日した時に使用する金額の客単価を調べると、今のところ台湾・香港・中国からの観光客が多くなっているが、これからは、多分タイ人観光客の需要が増えてくる。欧米からの観光客はあまりお金を使わないから、爆買いのような大きな売上にはつながらないだろう。

そんな爆買いブームを見ていると、携帯各社の販促キャンペーンを思い出す。

政府が口を出すのは良くないと言う批判もあるが、官邸のひと声で「携帯電話のゼロ円販売」は無くなった。そのせいで契約件数が下がったと言う声もあるようだ。大半の人が携帯電話を持つようになった今、他キャリアの客を引っ張ってくるのが一番効率が良いのだろう。ただ15年以上ドコモを使ってきた私にとっては、上得意である既存客を無視して新規客ばかりを狙う「MNPゼロ円キャンペーン」を横目で見ながら苦々しく思っていたのも事実だ。(今は利用年数に応じた値引き施策が組み込まれている)

新規客ばかり狙って既存客に冷たい商売はいずれ廃れる。と信じているのだが、携帯各社を見ていると、10年以上も莫大なキャッシュバックやゼロ円キャンペーンが続いてきた。本来の商習慣から見れば、そちらの方がよほど異常だ。